居場所の家族/相澤久美

第2回 シェアのはじまり:30年前

建築家・編集者・プロデューサーなど・・・
「なにものですか?」と聞かれるがうまく答えられない日々。
職業はひとつじゃなくてもいいはずだ。

15年間共同主宰していた「ライフアンドシェルター社」を2011年一杯で卒業。
都市の雑誌『A』の創刊から企画編集に携わり、
2002年より自宅兼事務所「foo」にて仕事も暮らしもシェアする共有空間を実践。
2006年映像プロダクション「サイレントヴォイスLLP」を芹沢高志と共同設立し、
2008年『島の色 静かな声』を制作。2010年から『いちにち』、
2011年からは東北で『なみのこえ』のプロデュースを手掛ける。
現在は東北のドキュメンタリー映画『なみのおと』の配給も行う。
2010年から新宿御苑脇の文化サロン、「ラ・ケヤキ」にて
『関係性の科学』『辺境的中心に生きる』など、連載イベントを企画ディレクション。
2011年より「NPO法人淡路島アートセンター」理事を務め、複数のプロジェクトに携わる。
同年震災専門メディア「震災リゲイン」を立上げ、東北を中心に各地で様々な活動・取材を展開している。
辺境に点在する、ずっと大切にしたい人や出来事やモノに出会うのが喜び。
喜びをデータベース化しマッピングした新しい日本地図をつくり、
血の通う新しい繋がりを生み出すのがミッションのようだ。
そのために、2012年2月、海子揮一らと共同運営する「対話工房」の活動の一環として、
キャンピングカーを購入してしまった・・・。これからも移動し続ける。
http://lslablog.exblog.jp/i0

繋がる程に孤独を痛感し、大切さを更に想う

第2回 シェアのはじまり:30年前(2011.03.08)

前回は、fooができるまでの近い過去のことでしたが、今度は遡って30年以上前の話し・・・。

子供の頃の我が家は、多分とても人の出入りの多い家だったのだと思う。
劇団で戯曲を書いていた父の周りには、役者の友人や作家志望の若いお弟子さんも多く、気前が良く面倒見のよい父を訪ねて、色んな人が遊びに来てくれていた。
どこに引っ越しても、必ず近所の人に大きな声で挨拶をし、仲良くなり、友達になってしまう。
(いつも本音でぶつかるので、時に大喧嘩してしまうのが玉に傷)だから、作家や役者だけでなく、農家の人や、商店の人、電気屋さん、お蕎麦屋さん、
ありとあらゆる人が招かれて遊びに来てくれていた。
度重なる突然の来客に母は大変だったと思う。
気づけば冷蔵庫の余り物でツマミを作る天才になっていた。

父が二度目に建てた山梨・塩山の家。梅林の中に経っていた。
(こんな田舎だけど、よく人が遊びに来てくれていた。)
子供の私達はといえば、本以外は一切オモチャやお菓子など子供の嬉しいものを買ってくれない両親に代わり、遊びにくる度にぬいぐるみやリカちゃんハウス、ケーキやチョコなどをプレゼントしてくれる大人に囲まれて育った。

話が止まらない酔っ払いの父や、接客に追われる母には全く相手にされなくても、寝る時間が来るまでは必ず誰かが遊んでくれたり、よくわからない難しい話をしてくれたり、とにかく大人に相手にしてもらい、長い夜を過ごしていた。
髭の生えた細くてミイラみたいな偉い画家の先生が訪ねて来て、
膝に乗せられ怯えていた事もある。
突然一人芝居の即興がはじまり、静かにしていられない子供は二階においやられ、吹き抜けから一階の芝居の様子を眺めていた事もある。
突然子役として引っ張り出され、おどけて踊ったこともある。
子供が寝る時間になっても、一向に静かになる気配のない下階の大人の熱気に、私も落ち着かず、そうっと下を覗き込む事もしばしばだった。

 

(吹抜けの上から覗くと、舞台として活躍していた、一段上がった和室がよく見えた) 酔っ払いの大人たちは、しっかり者の姉に比べ、愛想良くお調子者の妹の私に、面白がってビールを飲ませたり日本酒を飲ませたり。
大人の宴会デビューは、物心ついたころには済ませていたと思う。

そんな賑やかな時間は好きだった。
楽しそうに飲んで話して笑う両親を見るのも好きだった。
家には、たくさん人がいるものなのだと、当たり前のように育った。
タウン情報誌を発行していた父の編集事務所が我が家の隣の古い農家の蔵にあった時期もあり、家に帰れば必ず誰かがいた。
鍵っ子は経験した事がなく、だから今もよく鍵を持たないで出かけて夫に怒られる。

ある時、離れのワンルームプレハブを自分の子供部屋にしていた姉が、鍵を部屋に残したまま施錠して中には入れなくなった。
「外側から窓を外せばいいよねー」と言いながら、浅はかな姉妹は厚さ3ミリほどの型板ガラスのはいったアルミサッシを外しにかかった。
プレハブ屋さんだって、そんなに簡単に泥棒にはいられては困るわけで、サッシは外れず、代わりに歪んで過剰な応力を加えられたガラスは、アッサリ縦に割れ、真下にいた姉の太腿をバッサリ切って地面に落下した。
あまりの事に呆然と立ち尽くす姉をそのままに、私は迷うことなく隣の事務所に走った。
五秒でつく。
目の前に、いつも助けてくれるお兄ちゃん、お姉ちゃんがいる。
母は買い物でいない。
いたとしたって、血をみれば貧血を起こすような母だ。
頼りにはならない、と、当時小3くらいの私が判断できるほど。
事務所で仕事をしていた数人が駆けつけてくれた。
Sさんはお医者さんの息子だった。
当時恐らく、まだ20代後半だったのじゃないかと思う。
でも、とても冷静に、まず傷をみて、姉に安心するよう声をかけ落ち着かせ、乾いた清潔なタオルを用意するよう私に指示をし、止血をした。
その間、誰かが救急車を呼んでくれていた。
日頃から仕事仲間である彼らの連携プレーの見事な事。
不思議と安心して見ていられた自分を思い出す。
ウチの隣には設計事務所もあり、愛想の良い私はそこのお兄さんたちとも仲がよかった。
彼らも騒動を察知して見に来てくれて、姉を励まし、私の肩を抱き救急車を見送ってくれた。
全ての事が終わり、手当をしてくれたお兄ちゃんに肩を抱かれ玄関に座っていると、買い物から母が帰ってきた。
なんとまあ、恵まれた幼少期を過ごした事か、と思う。

実はつい先日fooでのイベントの最中、長女が階段から落ちて頭から流血、血まみれになった。
傷口を確認し、迷わず乾いたタオルで覆い、スタッフの男の子と一緒に、冷静になるよう安心するよう娘を励ました。
その間に事務所の女の子が救急車を呼び、落下を目撃したもう一人の女の子は救急隊員に冷静に状況説明をしてくれた。
無言で床に流れた真っ赤な血を拭いてくれたり、イベントが滞りなく進むよう、救急車まで娘を担ぐ私が目立たぬようさりげなく配慮してくれたりした男子スタッフ達。
自分の小3の時の記憶がフラッシュバックした。
ああ、こういう時どうすればいいか、自分は知っているんだなぁ、と改めて実感した。

でもかつては、こんな状況が普通だったのだと思う。
色んな事が分離されず、整理されずにザワザワと混在していた。
誰かが誰かに見守られ、声をかけられ、孤独じゃなかった。
マスの為の制度に囚われず、自由に関係を築いていた。
誰の子にご飯をあげようが、叱ろうが、可愛がろうが、人類みな兄弟なわけである。
そこでなにかできる人が、今できる事をすればいい。
遠慮するより甘えて感謝すればいい。
助けられたら助け返せばいい。

そんなシンプルなやりとりで、世の中回っていた時代もあったし、そういう場所がまだあるのも知っている。
誰にも自由な居場所があり、ヒトが集まれればそこに居場所ができる。
家族って、書類上に連記された制度上のものだけでなく、一緒にいられる人たちのことを指すのだと思う。
助け合って生きて行ける人たちの事だと思う。
大事にしたいと思う人達の事だと思う。
今の家族という制度に課せられた、その構成員の任務はあまりにキツイ。
よく働くお父さんは、妻に優しく、家事と育児も手伝う、イクメンとやらにさえならなければいけないとマスコミは言う。
優しくマリア様みたいな理想の母像なんてありえないし、ましてその姿は1つじゃないはず。
千差万別。
だって、そんなの大変でしょ?
そりゃぁ、聞こえはいいし、理想かもしれない。
でも、仕事は大変。
家に帰ったら、ノンビリまったりしたい。
それは男も女も一緒。ぐーたらしたい。
でも、やる事は沢山あるし、相手にもあれこれ期待してしまう。
だからやっぱり、家にはお母さんもお父さんもお兄ちゃんもお姉ちゃんもたくさんいればいい。
それぞれが、役割を分担すればいい。

(よく父の弟子の弟、みたいな人に遊んでもらっていた。
きれいな女優さんもよく遊びに来ていた)

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