居場所の家族/相澤久美

第4回 いられる場所

建築家・編集者・プロデューサーなど・・・
「なにものですか?」と聞かれるがうまく答えられない日々。
職業はひとつじゃなくてもいいはずだ。

15年間共同主宰していた「ライフアンドシェルター社」を2011年一杯で卒業。
都市の雑誌『A』の創刊から企画編集に携わり、
2002年より自宅兼事務所「foo」にて仕事も暮らしもシェアする共有空間を実践。
2006年映像プロダクション「サイレントヴォイスLLP」を芹沢高志と共同設立し、
2008年『島の色 静かな声』を制作。2010年から『いちにち』、
2011年からは東北で『なみのこえ』のプロデュースを手掛ける。
現在は東北のドキュメンタリー映画『なみのおと』の配給も行う。
2010年から新宿御苑脇の文化サロン、「ラ・ケヤキ」にて
『関係性の科学』『辺境的中心に生きる』など、連載イベントを企画ディレクション。
2011年より「NPO法人淡路島アートセンター」理事を務め、複数のプロジェクトに携わる。
同年震災専門メディア「震災リゲイン」を立上げ、東北を中心に各地で様々な活動・取材を展開している。
辺境に点在する、ずっと大切にしたい人や出来事やモノに出会うのが喜び。
喜びをデータベース化しマッピングした新しい日本地図をつくり、
血の通う新しい繋がりを生み出すのがミッションのようだ。
そのために、2012年2月、海子揮一らと共同運営する「対話工房」の活動の一環として、
キャンピングカーを購入してしまった・・・。これからも移動し続ける。
http://lslablog.exblog.jp/i0

居場所の家族

第4回 「いられる場所」2012.5.14

自分にはfooという居場所がある。
この連載は、この、自分の居場所での出来事について書いていくつもりだった。
ところが昨年 の3月11日に東北で地震が起きて津波がきて原発が事故を起こし、いろんなことがひっくり返るような事態が起こってから、自分の居場所は何がなんだかわからなくなった。
震災直後はドイツ人の友人に促され、彼の住む淡路島に家族全員で避難した。
その時のことを、前回のこの連載にも書いている。

その後東京に戻り、福島の不安は抱えつつ、さて自分にできることはと考え行動した。
震災専門のメディアを立ち上げ、巷に溢れかえる情報の整理分析と中間支援の活動を始めた。
震災リゲイン(http://shinsairegain.jp/)という活動で、仲間の編集者やライターとほそぼそ続けている。現地に 行くことをつい優先してしまい、サイトの整備も充実もおろそか。
紙媒体も夏に一度出したキリで、今月末当たりにようやく『震災リゲインプレス』として再ス タートを切る。支援だ取材だで東北に行く機会は増え、他の地方での仕事もあり、気づくと自分の本拠地であるfooにいられる時間が極端に少なくなっていた。
月に半分もここにはいられない。
fooは誰が中心と決められているわけではないが、何しろ私は家主である。
やたら不在にして良い訳もなく、反省しきりなのだがどうしようもない。

と はいえ、年末に、これまで旦那と共に15年間主宰してきたライフアンドシェルター社を辞めて、彼らには上階に上がってもらい、一階をまたフリースペースに したこともあり、またなにかここでの活動を再開したいと思っている。
mother dictionary関係でで知り合った友人もたまに使ってくれていたが、先日もalmanacさんがクローズセールに使ってくれて、売り上げの一部を震 災リゲインの活動に寄付、残った子供服を被災地の皆さんへ、と寄付してくださった。
この子供服は、女川と塩釜の友人に販売を依頼し、売り上げはすべて東北での支援を続ける彼らの活動資金に当ててもらえるようにお願いした。

場所があるというのはとにかくありがたい話だ。
場所は、そこに人が集うことで、生き物のような存在になり得る。
ただの箱、されど箱。
正しく運用されれば必ず生きる。
屋根があり、壁があり、机や椅子があり、コーヒーが 飲めたりする「場」というのは、人が血液のような存在となり、建物自体本当に生き物のように機能する。そんなコトを、先日地震と津波に襲われ、市街地の大半から建物が姿を消した宮城県女川町で体感した。
以下は、震災リゲインのスタッフブログにあげたテキストだが、更新頻度の低いこの連載、ひとまず以下で勘弁してもらえれば幸いなり。

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女川には頻繁に通っている。
対話工房(http://taiwakobo.jimdo.com/?mobile=1)という活動に参加しているからだ。
対話工房の代表、海子揮一は2010年10月に仙台で一度あっただけの同業者だった。
つまり建築家。ある人に紹介され、その後Tweetでその存在を確認していた程度の仲だ。
面白いな、と思うTweetにはたまに返信したりしていたが、震災後の名取で被災した彼のTweetを見て、2011年4月に連絡を取り仙台に訪ねた。
その時見せられた屋台のスケッチと新聞の切り抜きの写真、彼の話を聞き、震災リゲインとして協力できることをしようと思った。気付けばいつのまにか、対話工房という活動名がつき、メンバーの一員になっている。昨年後半から女川でワークショップを重ね、女川には親しい人が増えて行った。
対話工房としてではなく、震災リゲインとしての支援や、サポートしているNPO法人N.C.S.の活動を絡めた支援など、様々な形で地元の方々と関わらせていただいている。
なかなか思うような成果があげられていないのが情けないところだが、根気強く通い続けている。あきらめの悪い性格。
今回の訪問も、いくつかのプロジェクトに課題があっての訪問だったが、いわゆる打合せのアポは取らず、少し復興商店街やおちゃっこの拠点など巡りながら、いろんな人と会ってゆっくり話す機会にしようと思っていた。
こんなことができるようになったのは、仮設住宅以外に人がいられる場所ができたからだ、とふと思う。今までは、対話工房が内装協力した、病院脇にできたお 茶っこ倶楽部と、仮設の小さな商店街くらいしか、市街地に人がいられる場所がなかった。
だから、ブラッと週末でかけて、あそこに行けば誰かがいる、というコトはなかった。
町に、人が佇める場所がなかった。
一年経って、ようやく大きめの復興商店街ができ、地元の人がウロウロしている姿を見てホッとした。歩く と、この数ヶ月で仲良くなった人に「お、また来てるの?」「今日のアクセサリーも可愛いわね」などと声をかけられる。
其処彼処で、立ち話で談笑する人々の 姿が見える。
八百屋、乾物屋、雑貨屋、食事処、洋品店などが軒を連ねる。
町らしい活気が、戻ってきていた。
ベンチに座って、並んでタバコを吸い何気ない日常会話を交わす。
問題はまだ山積みだろう。
でも、こうして顔を合わせて話し、共に過ごす場ができれば、
この町の人たちはきっと何とかするだろう。
ただ意味もなく言葉を交わせた数時間が、素直に嬉しかった。

相澤久美

女川にできた商店街の看板。かわいいデザイン。
話に夢中で、商店街の活気っいた様子を写真に収め忘れた…photo Kiichi Kaiko

 

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